人はなぜ”宗教っぽいもの”を嫌うのか
「宇宙神ありがとうございます」のお祈りがどんどん広まっています。
私の周りでもお祈りを始める仲間が増えてきています。
でも、もっともっと増える必要があるみたい、いろんな意味で。
このブログを読んでくださっている方の中にも、「宇宙神ありがとうございます」というお祈りがあるってことはわかったけど、宗教っぽいから、胡散臭いからちょっと踏み込めない、、、という方もいるかもしれない。
(私の中にもまだ「胡散臭いと思われるかも?宗教っぽいって思われるかも?」という思いがあって、それを世間に投影しています)。
でももしそういう理由で踏み込めないなら、なんか損してるよなぁって思うのです。
本気で変わりたいのなら、目覚めたいのなら、幸せになりたいのなら、ぜひ唱えるべきです。
では、一体その宗教っぽさのどの部分に自分が反応してしまうのか、調べてみませんか??
人が宗教っぽい点で嫌う部分というのは、
○排他的な感じ。他では助からないという。
○これこそが唯一正しい、という優越感
○依存心が肥大化していく
○神様、など自分以外の誰かを崇める
○やたらと恐怖を煽る
○教祖が偉そうにしている
○団体として閉鎖的
○やたらとお金がかかる
○誘導感、洗脳感、支配感、対人操作感
○常識からかけ離れている感じ
○俗世から分離されている感じ
○内部で何が行われているかわからない感じ
○思想を押し付けられ、思考停止になる(つまり洗脳)
○科学的ではない
○グループで使う言葉が独特。
○ある事件以降、メディアによってスピリチュアリティの悪い部分ばかりクローズアップされた
「排他的な感じ。他では助からないという」
「これこそが唯一正しい」
「ありがとうございます」を唱えるということを教えている方は、世の中にたくさんいらっしゃいます。「宇宙神ありがとうございます」のお祈りは、「ありがとうございます」では今いろいろ間に合わないことがあるので(家庭用焼却炉じゃゴミ・・・”思い”が全然減らないから、業務用大型高速焼却炉を使ってみますか、という感じでしょうか??)、その進化版として今年に入ってからありがとうおじさんを通して降ろされたものであり、他を否定しているということも一切ないです(ただし、どれだけ時間がかかるかはわかりません)。
実際、私も他の方法といろいろ組み合わせています。
「神様、など自分以外の誰かを崇める」
先生のお話に出てくる神様は=全体、根本、なので、自分も神さまと一体。自分の奥の絶対の中心にいるのが神様。
自分とは違う他の誰かや何かを崇める、という宗教とは違います。
「教祖が偉そうにしている、欲深い、派手できらびやか」
「依存心が肥大化していく」
まず、ありがとうおじさん(以下、先生)は教祖でもなんでもないし、「宇宙神ありがとうございます」の感謝行は宗教ではないのです。
先生は昔から何かの団体を作ることに全くご興味がないようです。
ありがとうボランティアグループは、先生から学びたい、一緒にお祈りしたいという人たちが自主的に集まってきた人たちで構成されていますが、グループ自体があるのかないのかもそもそもわからないぐらい出入りもめちゃくちゃラフな自由な感じです。
実際先生は、その愛のオーラや病気直し能力などがハンパないのもあって有名にはなりましたが、昔から「私の名前はもう出さんといてください。この私はゼロですから・・」と仰っているからこそ、今でも「ありがとうおじさん」と呼ばれています。
「ボランティアグループなんですが、なにもないと回りから認めてもらえな いから、仕方なしに最近つけた名前なんです。感謝の心からさせてもら っているから、「ありがとう ボランティアグループ」という名前にさせても らったんです。本当は何もなしで進めたかったんです 」by ありがとうおじさん
まず、先生は1ミリも依存させてくださいませんので、手取り足取り導かれたい人とっては放置されている感じがするかもしれません。今はお祈り以外、講話などもされていないし。
村に縁のある人たちに対しても、「どこそこの誰々さん」という個人を見ていらっしゃるのではなく、ご家族も含め、全体を一つのタペストリー、光一元に見ていらっしゃるような印象です。
先生は夏はティーシャツ、冬はフリースなどかなりラフで質素な格好で、もし街の中で出会っても、よほどエネルギーレベルでわかる人でないと、一見フツーのおじさんにしか見えないと思います。
そして、先生の謙虚さは半端無いです。かつて村ではちょっとした著名人を読んで講演会ツアーみたいなことを定期的にやっていた時期があったそうです。
その講演の間、聴いている人たちは足を崩して座っていても、先生は正座の足を崩すことを一切なさらず、最初から最後までそのスピーカーに敬意を表して背筋を伸ばして講演を聴いておられたそうです。
部屋で人が満員になったときは、先生や村に近い人たちは別室でスピーカー越しに講演を聴くこともあったみたいですが、そのようなときでさえ、先生が姿勢を崩してお話を聞く姿を見ることはなかったとある人からお聞きました。
「内部で何が行われているかわからない感じ」、「団体として閉鎖的」
ありがとう村は、初めて訪れた時は、サティアンみたいに正直アヤシイって思いました(笑)。
でも、初訪問でも「誰?」って感じでジロジロ見られることもないし、お客さんとして特別な歓迎や待遇をされることもありません。出入りは自由な感じなので閉鎖感は全くありません。
帰るのも居るのも、何も強制はされません。(ただし、最寄りのバス亭からは少し遠いですが・・笑)
「やたらとお金がかかる」
村に何日滞在しても、お金を請求されることは一切なく、それどころか、置いてある本やシールなどいくらでも持って帰っていいよと言われます。感謝の奉納の賽銭箱があるだけです。
「思想を押し付けられ、思考停止になる」
教えを求めるまえに、ただ祈れ、と。
真の祈りは、本心開発のため。自由意志を最高に発揮するため。思いのない、無色透明な光の自分を実感するためのお祈りです。
「方便の教えを聞いて喜んでいるのは、思いの心である。次から次へ と、新しい話を追い求めて聞いているのは、これまた思いの心である。
感謝に生きる心は、一を聞いて十を悟り、即実行するものなのである。 感謝に生きる人を育てる為には、沢山の教えは必要ないのである。
本を読むよりも、祈る方が大事なのである。テープを聞くよ りも、祈る方が大事なのである」by ありがとうおじさん
「科学的でない」
そもそも、「科学的」とは何でしょうか?
それは十分な観測を通してある現象が有意に認められた時は、そこには必ず何かがある、と素直に認める事です。
だから有意に現象が認められるにも関わらず「それは科学的では無い」として無視する事こそが、「科学的ではない」のです。
それは単なる「常識教」であり、それ以外の現象や事実を認めない、頑なな心に過ぎません。
by 高木 亮
実際、「ありがとうございます」の言霊のパワーの凄さは、水結晶の実験や、様々な結果や体験などから、ほとんど間違いない事のようです。
(もちろん、学校の教科書や新聞に載る事はありませんが・・)
あの、天才精神科医の内海 聡氏でさえそのパワーをとても高く評価しています。
世の中は、「祈り」についてもうすでに科学的な立証に向けて動き出しているみたいですよ。
「常識からかけ離れている感じ、俗世から分離されている感じ」
「グループで使う言葉が独特だったり、独特な祈り方がある」
村には「ありがとうございますシール」が至る所張ってあってあり、最初はギョっとする人もいるかもしれません。
でも見慣れてしまえばなんでもないし、例えば、このシールにはめちゃくちゃ光が降ろされてくるので、先日の熊本の震災でも、どんなに被災地のど真ん中でもこのシールを張っている家だけは全く被害がなかったなどの奇跡の話を聞いてしまえば、自分の家にもペタペタ貼らずにはいられなくなるでしょう(笑)。
護摩焚きの時や、早朝のお祈りでは、宇宙神タイムといって、声を出しながら手振りつきのお祈りをみんなで揃ってします。
宗教っぽいとか気持ち悪とか抵抗を感じるとすればこのあたりでしょうか??
でもでも、この手振り付のお祈りをやったら本当に心も体もスッキリします。
そこさえ「エェイ!」って踏み込んでしまえば、もう何も怖くありません(笑)。
常識教があなたを幸せにしてくれることはありませんよ~。
コンサートのお知らせ
響きのエクリチュール
~グレゴリオ聖歌から近現代まで 教会音楽の千年紀~
日時:2016.10.5水 19:00開演
場所:ザ・フェニックスホール(大阪駅 徒歩10分)
出演:声楽アンサンブル ヴォイスペクティヴ(11人のSATBアカペラアンサンブルグループで、私はソプラノで出演します!)
チケット料金:全席自由 前売り 3,000円/当日 3,500円
phoenixhall.jp/performance/2016/10/05/4077/
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