つまり、”インナーボディ”とつながるってことなのだ
2つの世界で生きる「わたし」
心のアルケミスト、しっしーです。
最近わたしはよく「現象界」と「潜象界」の2つの私を意識して生きる、ということを自分でも常に意識しつつセッションなどでもよく話しています。
現象界の私とは、前頭葉が作り出す「人生ドラマ」で生きる私です。
潜象界の私とは、カラダの方の私です。
カラダといっても、この見えてる肉体(精神の影、鏡)ではなく、感じているカラダのことです。
五感以外で認識できるカラダ(量子場としてのカラダ)です。
「人生ドラマ」の世界ほうは、時間があって、有限です。
皆さんが、「これが唯一の現実だ!」と感じているほうの世界です。
もう一方のカラダの世界は、時間がなく、「死」もない。
文明がごっそりと隠してしまっている世界です。
あるのに、ないことになっている。ないような錯覚になっている。
だから、「人生ドラマ」の中に閉じ込められてしまう。
この、「もう一つの世界に生きている私」の感覚をごっそり忘れてしまっていることが、心の病や苦しみの根源的な原因なんだけれど、その2つの世界を統合して生きてる人が周り見てもあまりいませんよね。
そして、いたとしてもその人たちがいくら統合の世界のことを発信しても、受けとる側がそれに響き合うものを持っていないと、ちんぷんかんぷんでいつまでたってもわかってる人とわからない人の溝が埋まらない、、、。
ですが、不思議なもので、「わかりたい!知りたい!」としつこく諦めずにやっていくと、「あの人が言ってたことは、こういうことだったのか??」と少しずつ光が当たってないところに光が当たりはじめ、「わからない人」から「わかりつつある人」を経て、ついには「わかっちやった人」になれる日が来るんですよね。
しかし、私たちには「わかりたい」という願望と同時に、「わかりたくない」、「知るのが怖い」、「自分にはわかりっこない」という強い抵抗、恐怖、諦めもあるわけですね。
この抵抗は、私たちが子どもの時に周囲の大人たちのコントロールに屈服するように、エネルギーを無理やりねじこめられた体験からきています。
逸話「鎖に繋がれた象」の象さんと同じですね。
願望と抵抗、この2つの相反する力を認めた上で、「よし!この抵抗を乗り越えて本当の自由を獲得していこう」とコミットしたところに進化と癒しの道が開けていくように思います。
さて、今日はヌーソロジーの半田さんのメルマガをshareします。
ヌーソロジーは、5年ぐらい前に知って気にはなっていたのですが、その当時私の中にそれと響きあう部分があまりにも少なすぎて、ものすごく遠い世界の話のような気がして敬遠してしまった真理の学問の一つです。
それから、私の中の光が当たってなかった部分にしだいに光が当たってきたことにより、再び出会ってみたらものすごく響くところが大きいのです。
代表の半田広宣さんのエネルギーも好きです。
勉強し始めて日が浅いのでまだよくわかりませんが、
私たちが向かっていく先は、ヌーソロジーでいうところの「変換人」として生きることなのではないかと思っています。
「脳幹活性」、「内観瞑想(知覚の世界にどっぷりつかる)の時間を持つ」、「感謝のお祈り」の三つの実践は、この文章に出てくる「深刻な裂け目」をつなぐ、あるいは埋めていくものとして、宇宙から与えられたものだと認識しています。
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●内在性の奥から外へと出る道を探すこと
レクチャーなんかでもよく言っているのだけど
人間は誰もが一つの個として生きているよね。
でも、この個はその中に二つの相反する個を持っている。
一つは社会的個としてのわたしであり
もう一つは精神的個としてのわたしってやつ。
社会的個というのは
国籍や性別や名前を持ち
父であったり、母であったり、また、
職業的な肩書きを持たされている個のことだね。
もう一方で、純粋な生命として
存在させられている個もいる。
この個には国籍もなければ
性別も名前もない。
つまり、これは純粋な魂、生命として
生きている「わたし」のことと言っていいと思うよ。
夜空にきらめく星々を見上げたとき
誰でも言い知れない
崇高な感情に満たされるときがあるでしょ。
そのとき、人は普遍と向き合い
自分自身の中で打ち震えている魂の存在を直観しているんだね。
夜空には人間が作った創造物なんてものは何一つない。
嫌がおうでも、素の自分自身という存在が
意識させられるってことだよ。
少し考えればすぐに分かると思うけど
この社会的個と精神的個はすこぶる仲が悪い。
戦争なんかが典型的だよね。
社会的個は自らの身を
保証してくれる国家を何とか守らねばと
戦いに備えて身を構える。
一方、精神的個の方は
戦争なんて勘弁してくれよぉ~
と心の中で叫んでる。
戦争は極端な例だけど
誰しも経験あるんじゃないかな。
現実を一生懸命生きようとすれば
何か大事なものが失われていく。
方や、目に見えない真理の世界を求めようとすれば
現実の生活がおろそかになる
といったようなどっちつかずの状態。
社会的個を取るか精神的個を取るか────
これは人間が持った
最大の不条理
と言っていいように思うよ。
多かれ少なかれ、こうしたアンビバレントさは
日常にも満ち溢れている。
実際、20世紀の哲学の使命も
この二つの異なる個のあいだの調停を
いかに諮(はか)るかを
ずっと考えてきたと言っても過言じゃない。
でも、そこに誰も明確な回答を出せてはいない。
よって、未だにこの二つの個が
仲良く手を取り合うような社会というものは
現れてきそうにない。
一体なぜなんだろうね────
こう言っちゃ身も蓋もないけど
それは原理的に不可能だからというのが
識者たちの答えのようだね。
国家でも、資本主義の市場でもいいけど
社会的個が作り出す世界というのは
常に個の魂を排除するようにしか動かない。
このあたりについては
ポスト構造主義の思想家たちが
すでにいろんな角度から細かな分析を試みて
一定の結論を出しているようだから
興味のある人は調べてみるといいよ。
簡単にいっておくとね、
社会的個は客観世界に生きて
精神的個は主観世界に生きているよね。
この二つの世界の間に
何か得体の知れない亀裂があるんだ。
内と外の間にある正体不明の亀裂。
この亀裂は言葉の世界と
知覚の世界の間にある亀裂と言ってもいいよ。
この亀裂が埋められない限り
社会という場所と個々の魂は
調和的に活動することはできないとされる。
この亀裂はほんとうに深遠なものなんだ。
ちょっと補足しておくとね、
この亀裂の発生は人間という生き物自体が
他者に「見られること」によって
初めて人間になる
という事情から来ている。
人間は他者がいなければ
自分が自分であるという自己認識は
持ちようがないってこと。
でも皮肉なことに、この「見られる」という
経験の中に落とし込まれることによって
人間は本来の宇宙が持った霊的律動から
疎外されてしまうという仕組みが同時にあるんだね。
ここに深刻な裂け目が横たわっていると思うといい。
自分を本来の自分自身から引き裂く裂け目、
人間を宇宙そのもの中に入っていくことを
阻害している未知の裂け目。
この裂け目の存在によって
個の宇宙的本性自体がこの裂け目自体の中に
沈んで見えなくさせられてしまう。
いずれ明確に分かつてくると思うけど
ヌーソロジーはこの裂け目の中に沈んだ
宇宙的個体としての力を
サルベージするための思考方法を
提案しようとしていると思っていい。
この宇宙的個体がサルベージされてくると
今度は自分の内在の奥側から
外部世界につながっている
「開け」の通路が見えてくる。
ここで見えてくる外部世界というのは
確かに物質の世界であり
かつ、社会の場でもあるんだけど
今まで僕らが見ていたような外の世界じゃない。
それは内在の奥深く入ったところに開けてくる外部なわけだから
内なる外になっている。
つまり、対象の世界じゃないってこと。
内側の奥なんだから、人々の内なるものが
つながってできている真の意味での
共同性の場だということなんだ。
この新たな共同性の誕生によって
物質世界も社会も全く違った意味を帯びてくるのが
少しは想像できないだろうか。
こうした空間に認識が触れられるようになったとき
ヌーソロジーはソーシャルなものについて
語っていくことができるようになるんだと思っている。
だから今は何か言いたくても我慢する(笑)
この記事だけでは何を言っているか
分からないかもしれないけど
ヌーソロジーの思考を追いかけていくうちに
ここに書いてあることの意味が
手に取るように分かってくると思うよ。
いずれね。
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