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心の動きを観察することで、エゴドラマから抜け出そう

悩みや苦しみから抜け出す究極の方法、それは、自分をあきらめる、手放すことです。
私も思考がぐるぐるして止まらなくなったときに、こう思うようにしています。
「そうだ、『宍倉朋子』だと思っているから悩むんだった。」
「宍倉朋子」は、正しく生きたい、まともに見られたい、善く見られたい、と思って必死にもがいてます。
それで、自分の中の無数にあるものさしからちょっとでも外れると不快な気分になるし、外れないように自分をだまし続けます。
「自分」という人物設定の要素、例えば経歴、肩書、人間関係、生活環境などをよりよくしようと必死になっています。
覚醒、目覚めとは、この「宍倉朋子」という人物設定の要素をすべて取っ払って素の自分を思い出すことをいいます。
私はまだ自覚した状態で完全に取っ払ったことはありませんが、取っ払っても大丈夫だし、取っ払った方がはるかに自分らしく生きられることはもうよくわかっています。
この、「自分」を築いている人物設定の要素、役柄といってもいいかもしれませんが、それと素の自分をちょっとずつ切り離していく方法はあります。
それは、自分の思考や感情を常に観察すること。
無意識に考えたり感じていることを意識化すること。
頭にやってくる考えを一つずつ見つめ、「○○と思っている」とカッコでくくっていくのです。
「今私は『ムカつく!』・・・と思っている」
「『誘いを断ったら、愛想のない奴と思われるかな』・・・と思っている」
「『彼氏に電話したいけど、今忙しくて迷惑かな』・・・と思っている」
「『あ、このパスタ美味しそう!1500円か・・・。ランチにはちょっと高すぎるなあ』・・・と思っている」
というふうに、防犯チェックのように、常に自分の考え、感じていることにセンサーを張っておくのです。
このトレーニングをしばらく続けていくと、自分を客観的に見られるようになってきます。
「役割」と「素の自分」を少しずつ切り離すことができ、人間(エゴ)ドラマにハマらなくなってきます。
昨年放映されていたTVドラマ、「家政婦のミタ」では、常に無表情でミステリアスな家政婦・三田を、女優の松島菜々子さんが演じていました。
「承知しました」「それは業務命令でしょうか」「それはあなたが決めることです」といった決め台詞が、学校や職場でも流行ったみたいですね。
このドラマの主人公である家政婦・三田は、壮絶な過去に由来する心の傷のせいで心を閉ざし、仕事は完璧だけれど、常に無表情で機械的、命令されれば犯罪行為さえも平然と行ってしまうという女性なのですが、もし松島菜々子さんが自分が役を演じていることを忘れ、自分のことをこの家政婦・三田だと思い込んでいたらどうなってしまうでしょう?
自分が「松島菜々子」ではなく、「三田灯(あかり)」と思っているので、三田の心の闇を自分のものとしてしまい、大変なことになります。
カメラが回っていないときも、松島菜々子さんがその役に没頭して24時間ずっと無表情・機械的だったら怖いですよね(笑)。
「自分は三田灯ではなく、松島菜々子だったんだ!」って思い出せれば、「家政婦のミタ」のドラマの世界から抜け出し、「三田灯」という役を演じている、という自覚だけが残ります。
「『二度と笑うまい』・・・と三田は思っている」と言うふうに、演じながらその役を客観視できるわけです。
それと私たち人間がやっていることが同じだとは到底思えないかもしれませんが、実は脳が錯覚を起こしているだけで、「宍倉朋子」という役柄に完全没頭して、その役を通して、いろんな経験をしているだけなのです。
苦しみや悩みも、「宍倉朋子」のドラマを通してのものであって、素の自分はそれを少しも苦しいとは思っておらず、むしろその「ドラマ」の刺激を楽しんでいます。
覚者というのは、この何も演じていない素の自分を完全に思い出した人のことをいうのですが、先に述べたような方法で、自分がどんな「宍倉朋子」を演じているかを意識し、日常的に行っている自分演出(頭の中の独りごと)に気づいて、そこから少しずつ脱却していくことが目覚めへのプロセスになります。
もし思考のぐるぐるから抜け出せなくなったり、人生辛いな~と思うようなことがあったら、「今自分は○○△子のドラマの世界にどっぷりハマっているんだな~」と思ってみてくださいね。
こちらの本もおすすめ。
著者、僧侶の小池龍之介さんによると、現代人は「思考という病」にかかっているそうです(笑)。

考えない練習 (小学館文庫) 考えない練習 (小学館文庫)
(2012/03/06)
小池 龍之介

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